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執筆者の写真Masaru Takayama

「Pura Vida Mae」 コスタリカが「すんごい」と知った訳


この写真は93年8月、メキシコのカボ・サンルーカスです。(同じ海洋学地質専攻のトムと)


アパートで1人暮らしの楽しみのひとつは定期購読していたダイビング雑誌を端から端まで読み倒し、次の旅の企画をすること!「マンタ乱舞」とか「サメの餌付けダイビング」などに釘付けになっておりました。


実は1994年に大学を卒業し、1年間インターンとして大学の教授に斡旋されたカリフォルニア州立道路公団で高速道路沿いの道の海浜浸食がどのくらい影響を及ぼしているのかの解析とアセスメントをする仕事にインターンとして従事していました。その後には日本に帰って島根県の松江市内にある土木設計事務所に籍を置いたこともありましたが、1995年の阪神・淡路大震災で両親の移住先であった淡路島へ移り住むことに。ブログの第1話で書いたように通訳をしていた私は時間もあり、マイルも貯まっていたので、もっと違う国を見たくなったのです。また大学の頃から気になっていたスペイン語にも魅せられていたのです。


そして1997年には、比較的近くて安いメキシコから少しづつ客単価が高いけれど衛生管理がされ、かつ安全で英語圏の英国バージン諸島やバハマ諸島、ついには生物多様性で知られるスペイン語圏のコスタリカを選んだのでした。アメリカの出張先からはほど近く、日本人観光客が稀にしかいないことが冒険心を煽り、その頃の同世代の友人とは異なった価値観を持っていたように思います。


「日本人が体験していないことをしてみたい!」

今から思うとよく1人で行ったと思いますが、その頃からパッケージではなく、航空券、ホテルの予約、ダイビングの予約をそれぞれアメリカの旅行代理店で申し込んでいたのです。カーボン紙に手書きで記入した読みにくい航空券で本当に行けるのか不安でした。最もその頃に日本から手配してもらっていたら法外な値段を突き付けられたはずです。既に上級マイル会員であった私は、賢く安く、マイアミ経由で入国をし、10人乗りくらいの観光客専用乗合送迎バンに半日乗って「オコタル・ビーチ」を目指したのです。


写真:日本から単身でやってきた、ただの旅好きダイバー。


NIKONOSVで撮ったマンタ(コスタリカ:イスラ・デ・カーニャ生物保護区)

今になって悔やまれることは、ちょうどその頃デジカメが出てきて、新しい物好きの私はほとんどその頃の記録をデジタルで残しておりました。しかし、昔のパソコンはハードドライブが急に故障したり湿気でSDカードが錆びてしまったり、画素数が少なすぎて使えない、結局フイルムしか残っていません。


さて、期待していたダイビングですが、海の透明度は低いものの、生物の多さにはただ驚くばかり。ボートダイビングでエントリーしたらマンタの背中の上だったり、トビエイの何万匹(!)もの群れが通り過ぎるのを水中で5分ほど待ったり。しかも海だけではありません。陸には吠えるような大声で早朝にたたき起こしてくれるホエザルや、本当に動きが遅いナマケモノ、何種類ものイルカや海ガメ、日本だったらカラスのいる所にオウム、スズメはインコ、雲霧林は蘭が咲き乱れ、道中数時間ずっとホタルが乱舞している自然の楽園だったです。


写真:ぶら下がっているので上下反対ではないです。雨でびしょびしょのナマケモノ。



イナズマに打たれたようなショックな日


5日くらい連続で海に潜っていたら、1日くらいせっかくだから熱帯雨林を見たいと思って現地の情報を頼りに英語ガイド付きビレッジツアーに参加。写真こそないものの鮮明に覚えています。


行程としてはシンプル。滞在していたホテルに車で迎えに来てくれた。


① 森を歩く: グアナカステ州は比較的乾燥している森林で雨季は緑でも乾燥している時はほぼ全体が茶褐色。しかし、幼いガイドはヤドクガエルやハキリアリなど多くの生物を知っており、その生態系での役割を話してくれたのが印象的です。この自然は守らないといけないと率直に思いました。


② 村での食事: シンプルな鶏の空揚げやカサバイモ(タピオカの成分)のフライ、黒い豆とライス。これにウスターソースをかけて食べると関西人にはしっくりと美味しい。平飼い(野放し)のニワトリやその場で収穫した農作物とトロピカルフルーツ。今でいう地産地消が徹底されていました。


イメージ:「ソーダ」と言われる食堂。見かけによらず!美味しいのです。


③ 学校の訪問: コスタリカは軍隊を撤廃し、教育に予算を使う平和主義の国。識字率が高く国民は勉強に熱心。決して物質的な豊かさがあるとは言えないある小学校で、先生も子供も村人も一体となって見知らぬ東洋人を心から歓迎してくれた。(中国人と日本人の区別は結局つかなかったのが残念)目頭が熱くなったのを記憶しています。



ガイド : 「今日は本当に村に来てくれてありがとう。君たちが来てくれるおかげでこの村の学校や病院が運営できる」。 「本当にありがたい」。


私 : 「どういうこと?公共の施設ではないの?」


ガイド : 「政府からの資金では不十分なので、ツアー料金の一部を公共性の高い学校や病院の建設や運営に充ててるんだ」。


私 : 「!!!!」

そんなの聞いたことがない!アメリカにも長く滞在していたが、観光客が学校や病院の建設に貢献するなんて。とっても素晴らしい仕組み!しかも村民全員が関わっている模様。


アメリカかぶれだった私は、感銘を受けただけでなく、発展途上にあるコスタリカに私の生活の在り方を一転させるほど驚かされた。まさに稲妻に打たれたようなショッキングな出来事。


コスタリカ、もっと知りたい。。

1997年4月、私は観光客として滞在ができる最大期間3か月、コスタリカに行くことを決意したのです。


次のエピソードは、「コスタリカでの一生の出会い」について書く予定です。



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